文体の分かりやすさは地の文の自然さ・空気度に比例するかも。

小説のリーダビリティについての話

大事なのは、大団円に至るプロットへ淀みの無い流れを作ることであって、それを形成する言葉は選びに選び抜かれなければならない。そして、そうした文章を的確に選び抜いた作品が、たとえばキングのサスペンスであったり、ハルヒを筆頭にするライトノベルの小説の文体であるように思う。軽やかで、読みやすく、淀まない。


めちゃめちゃ印象で書くけど、キョンの一人称って冗長じゃないかな。ミステリと比べて、ラノベの文体は形容詞が多いものが多いと思う。変な比喩も多いし。村上春樹は学校のテキストでしか読んだことがないけど、リンク先にあるように変な比喩が多いと聞く。


読みやすいかどうかと言うのは、その文章が現在展開しているそのシーンについてちゃんとイメージを持たせることができるかどうかにかかっているんじゃないかと思う。プロット的に前後に連なっているかどうかなんて、今そのページを読んでいる読者は、その文章を読んでいる瞬間には気にしない。ある程度意味を掴んでから、前後の連なりを考えたり、伏線かな、なんて考える場合がときおりあるくらいで、通常は今読んでいる文章は、その場面で起こっていることとして処理され流される。
にもかかわらず変に前後の関係を意識させるような文章――痛いときだけ身体のパーツを意識するように、大抵は違和感を生じさせる文章――を出してしまうから、読みにくくなるんじゃないかと思う。暗喩表現の連続で構成される地の文であったり、作品中の現実と想像が連続している地の文だったり、作者の思想が強く出ている地の文だったり……。それらは今読んでいるシーンを進めない文章だから、正常な読解力がある人なら、ちゃんと話が進んでないことを理解する。そして、話が進まないなと判断して、読んでいるのに進まないという感想を抱くのだ。全く正常な現象だ。

普通は、常に暗喩で物事を考えたりしないし、現実と妄想はごっちゃにならないし、文学について人生の時間を割いてまで考えたりしない。純文学作家という人種は、文学について考えるのが日常だから、そういった文章を地の文として書いてしまうが、通常の人はそれをイレギュラーな思考として捕らえ、例外扱いする。そんなイレギュラーがたびたび表れたら、読んでなんていられないだろう。読解を妨げるノイズにしかならないのだから。ストーリーを追っかけていると思ったら、文学について考えさせられていた。今起こったことを(ryみたいな。
文学について考えているキャラクターの思考としてなら素直に読めるはずだ。カンバセイション・ピースみたいな。あれはあれで実に冗長で、web上に掃いて捨てるほど他人の日記があるのに、金を払い時間を掛けて架空の人物の日記を読むなんて不思議だなあなんて思う瞬間がぼくにはあったが、一般的な純文学と同質の「なんだそりゃ? だからなんだ?」感は生じない。


で、比喩というのはさっき読んだシーンの言い替えだから、直接的には話を進めないけれど、そのシーンについてのイメージを成形するための手助けになるから、一応同じシーンの情報量を増やす役目を持っている。人や場合によっては過剰に感じるもしれないけれど、まあ表現の面白さでそれはカバーされる。オリジナリティを発揮するためのアドリブみたいなモノかもしれない。
これが、既に書かれたこと、あるいはこれから書かれることを言い替えた文章ではなくて、書かれていないことを言い替えた文章だったりすると、もう負荷が高くなりすぎて読解の速度を下げる。そんな文章がメインとなると読みづらくて仕方がないと感じる。その比喩だか引喩っぽい表現自体が面白いと感じればいいが、そうでないなら、常に技巧過剰。コードもないのにアドリブしたら作品にならないだろう、という印象に終わる。


うん、ほとんど観念的に書いたから実に抽象的で、ぼくの脳内で完結した文だな。一瞬青木淳悟とか思い浮かべながら書いたけど、あれが純文学かは知らないし。