良いも悪いもリモコン次第

マイケル・サンデル教授の特別講義「Justice」に出席してきた


デザイナーズベイビーの話では、親が才能を決めて子供を産むことの倫理が問われていた。しかし、親が与えた才能を生かすかどうかは子供次第ではないか。


音楽の才能があっても、才能があるかどうか分からないスポーツの方が好きで、スポーツに走る子供がいても良い。頭の良さを与えられ、本来的には学者やらビジネスマンになることを期待されていたとしても、料理人になっても良いし、その辺でぷらぷらしていても良い。人間、結局は好きなこと・やりたいことしかできない。


才能を生かさなければいけないという発想が、そもそもなにか良く分からない効率主義に囚われている。まあ、社会的全般に見てみれば、金と資源を掛けてデザインした子供なら、それを活かして社会に還元すべきなのだろうが、それこそ道義的には強要できないのではないか。


親が子供に才能を与えたいと思うのは、現在でも教育として行われている。親が子供について欲しい職業を決めているのは、種々伝統芸能なんかによくあるが、それだって本当の意味で強要はできないことだ。

ハイフレームレート単眼レンズ3Dカメラの技術を新開発

やるなあ、SONY
単眼でも入ってくる画を分ければ3Dになるんじゃないの、とは素人でも考えるところだが、実際には難しいだろう。それを実際にやってしまうのはなかなか良い。もっとも、レンズが大きくなった場合は2つつけるのは結構無理があるし、多少光学に無理があってもPGで処理してしまえばいいという最近の風潮からすれば、それほど突飛でもない。



たしか、昆虫の複眼のように、安いカメラを球状に配置して1つの映像を処理するシステムをどこかの大学で開発していたはず。超解像の類は、アナログ的なブレから画像を作り上げていくので、むしろちょっとした性能のカメラが大量にある方が画質が優れるようになるかも知れない。カメラ好きは光学性能にこだわるけれど、画の方にしか興味がない人間にとっては、画像処理でも何でも、綺麗になっていれば何でも良い。あるいは、人間の視覚だって大概は画像処理的な認識の世界の上に成り立っていると考えれば、PGでなんとかしてしまう方が人間の視覚に近いとも言える。


単純な横スクロールなら時間差から視差のある画像を作るのはそんなに難しくない。常に奥行き方向(戻り方向でも良いけど)に移動続ける映像でも、それなりに奥行きを再現できるだろう。そもそも視差のある画がなくても、3次元世界を映した映像なら、結構なんとか3Dに出来そうな気がする。早く3Dが普及した世界になぁれ。しかし、その前に一般用のビデオカメラの広角側は広げてもらわないと画角が狭すぎるけどな。

WAVEDRUM

WAVEDRUMが届く。はじめは10/15が発売予定だったはず。
はじめの設定だと、手で叩くよりスティックを使った方が良い感じ。
とはいえ、ドラム自体やったことがないのでよく分からない。
とりあえず感度を上げてみた。
物理的な振動も使っているため、結構大きな音がする。
小さいスピーカーにつなげると音が小さい。
リムの方が音が大きくなるのは、安定したところにおいてないせいだろうか。


面白いインターフェイスのものはついつい飛びついちゃうけれど、一通り触ると満足しちゃうんだよなあ。それなりに使いこなせるようになるまで使わないとな。

他己ウケ

http://www.dentsu.co.jp/di/consumer/index.html


相変わらず、おっさん(かはしらんが)が青少年と絡むと、昔は自分も10代だったくせにキモい分析しちゃうよなあ。
結局は、ケータイ使ってるだけで、日本人のメンタリティは昔と同じなんじゃないかな。

で、ここで感じた日本人のメンタリティは、少なくても1960年代からは続いているメンタリティ。根拠はないが、TVを中心としたマスコミの体制ができあがった頃から続いている情報共有の構造。当時の新商品が登場した際の報道なんかを見てみると、基本的にいまと変わらないように思う。いまの報道がかつての報道スタイルを踏襲しているだけで、実体は異なっているのかも知れないけれど。新聞・ラジオの開始期かそれ以前からあるかも知れない。日本人は権威に弱いなあ、という紋切り型で言われるときの日本人像。



http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20090219
「他己ウケの時代」が言おうとしていることって、旧来の日本的な処世術とはまた少し違ってきていると思うから。


これについては、少なくとも80年代にはそんなかんじだったんじゃないの、と思う。昔のマンガとかアニメとかみても、秀才キャラというのは、空気読んでわざと何問か間違えておく、みたいなスタイルで描かれてきた。実際にそんな子とするヤツがいたかどうかはともかく、80年代に作家をやっていた連中が学生だった頃には既にそんな空気があった、ということだ。


まあ、これも階級を絡めることも可能だろう。要は、その場の平均から逸脱しないようにするのだ。もっとも、そういうキャラは後々進学する際に上のクラスの学校に行ってしまう。
最近では、わざと周囲と同じレベルの進学先を選ぶキャラもいるような気もするが、それは自分の目的が見つからないからという理由が付けられている。


他己ウケの記事ではないが、ケータイがあれば、物理的に一緒にいなくても、サークルは維持できる。階層違いが空気を読むなら、まず場を離れ情報の共有だけにして、次第に交流のペースを下げていく。メインのサークルからいなくなってしまえば交流頻度が下がっても自然だし、ちょっとだけ繋がっていれば、何かの理由でサークルに復帰する必要が生じたときにもそんなに負荷はない。


そもそも、レベルが違うなら本人はどのみち疎外感があるはずだし、周囲の奴らだって空気読んでるなとは思っても自分と同じだなんて信じたりしないんだから、インテリの友達がいない奴はインテリになれないなんてことはないと思う。やれば出来るのに、やらないでおくレベルのヤツは増えるかも知れないが、やればできるなんて結果論だし、そんなもん全体で底上げする以外にレベルの上げようなんてないんじゃないか、と思う。

ボカロ

第三弾はCV浅川悠
ハム太郎がきっかけなら、持ち物はひまわりの種が良いと思います。黄色い奴らと被るか。じゃあ、ハム耳?


英語の発音が出来て、機会音声化しても通りが良い声なら、大原さやかとかも向いていると思う。

宇宙で待ってる

機動戦士ガンダム00SSの第12話。

アバンのルイス「約束よ」がなんか月詠を思いだした。フルフルフルムーン。
比較すると1期のときより声が低いのが明確だけど、成長というより追い詰められているという感じ。
容姿を変えるべきは、中華じゃなくてルイスの方だったように思うが、"過去に囚われている"という意図のような気もする。


先週どうも収まりが悪かった二人のセリフが重なるところ。今週はステレオの分離を大きめにしたね。違いを出した方が良いと判断したから、とも受け取れるし、先週のサブタイトル通り、再会したけど離別でもあって、今週はもう完全に離別のフェイズなのだ、という演出とも受け取れる。



劣化しているのに、リボンズにとっては中華は小娘。リボンズの中身は相当おっさんなのだろうか。僕が一番上手くガンダムを操縦できるんだーと言い出す日も来るのだろうか。



苦悩する沙慈に対して、振り切るルイス。男女の反応の違いって感じで良いね。とはいえ、ルイスの反応は精神病的に追い詰められたが故のオール被害妄想っぽい反応の方が大きいように見える。今まで写真を持っていたということは、唯一の生きている心の支えだったのが沙慈ということで、それに裏切られたと思うことでより頑なに症状を悪化させそう。


そういえば、ルイスは写真を持っていて、沙慈はメールだけ。沙慈が持っているのが写真の方が、過去のルイスの幻影を追っているように見せられるし、ルイスが自分の出した「宇宙で待ってる」のメールを自分で消す方が過去を切り捨てている感じを出せるような気もするのだが、どうだろうか? 男は視覚、女は情緒、みたいなステレオタイプも出せると思うのだけれど。
ルイスはロッカーを眺めていたし、先週からの続きで、2階級特進中尉の写真がキーになっている、という要素を重視したのか。だとすると、写真を消したことで、ルイスは自分の中で沙慈を殺したことになり、そのまま敵として沙慈を殺すという演出にに繋がる。そっちなのかなあ。的外れ?


なんかコーラがニュータイプ反応みたいなのを出していたんだけど、結局やられてる。覚醒やられ。高度なテクニック。御覧の有様だよ!