天は自らを助けるものを助く

 いずれ地球という惑星は、駄目になるときが来るであろう。それがいつになるかは分からないが、そのときには人類は生き延びられる場所に移動するだろう。地球が滅びようとしていることに対し、人類は早くからそれに対応しなければならない。その際に、世界を救おうと考えるのではなく、自分たちを救うことを考えるべきだ、とルーカス氏は主張する。


Dreamforce 07 Report:教育の充実で地球環境を改善できる――ジョージ・ルーカス氏 (2/2) - ITmedia エンタープライズ

別にキリスト教的思想というわけではないけれど、その通りだと思う。流石ルーカス。良いことを言う。
大抵の自然愛護団体的な発想は、自然を守ってやろうという意識から始まっている。可哀想だと思うのも同系列の発想。
自然を守る必要性というのは、そういうものではないように思う。単純に、自然を守らなければ自分たちが生き残れないからするものだ。人間以外の生物の保全は、人間のためか、沢山の生き物がいた方が面白いから必要なのだ。それ以上の意味はない。


現存生命のほとんどが滅び去っても、地底の奥底に原始的なバクテリアがまだ生き残っている。彼らは40億年前からずっと存在し続けている。地表や海中のちょっとした生き物の歴史など関係なく存在している。生存権を体積的に考えたら、地球のごく表面で蠢いている生物よりも、地中奥底の生命の方が多い可能性だってある。地球の生命の重要な部分が自分たちのいる世界にあるというのは思い上がりかも知れない。その所為で、物事を無駄に深刻に考え、自分たちを悲劇の主人公のように考えているとしたらちょっと滑稽だ。ちょうど、天動説が誤りだったように。
地下の生物群がいる限り、地球の生命は滅んだことにはならない。別に、地下の生物に固執しているわけではない。ただ、現状5つと考えられている生物界のうち、人間が普通に生物という言葉から連想する生物はごくごく一部に過ぎないということを言いたい。それ以上の生物が生き残る必要があるとするならば、それを必要と感じる意識の問題であり、それはつまり人間が問題だと思っているということに過ぎない。


残りの生き物は、自分とその子孫が生き残ればそれで十分なのだ。人間だって本来はそういうものだろう。系で考えなれば生き残れないとしても、大抵は自分自身のことしか考えていない。全ての生命が自分のことを考えているならば、それで十分ではないか。ただ、人間は他者意識を持っているから、もう少し大きな系で考えられるというだけのことなのだ。自分たちを救うところから発想が出発していることを無視するような思想では、すぐに頓挫してしまうだろう。