代替可能性

恋愛は代替可能だという命題がはてな界隈で微妙に流行っているっぽい。
既に言われていたけれど、60億を超える人間のうち(異性は半分だとしても)、そのほとんどと出会うことすらなしに決めることのできる運命の相手というのは、それ自体がまさしく代替可能な存在であることを示唆しているのではないかということ。まあ、運命の相手だから自ずと引き合って地球上の全ての人間と出会わなくても運命の相手だと分かり合えるのかも知れないけれど。


よく、人生の一回性とかなんとかいうことを言ったりもする。Aという人物を愛することは、Bという人物を愛するのとは違うと。
Aを愛するのとBを愛するのは違っても、近代人としての大原則である人類平等の立場に立てば、Aを愛するのとBを愛するのは等価なんだから、違うものであっても代替可能ってことで良いんじゃないだろうか。Aを愛するのはAでなければならない。それは当然だ。しかし、Bを愛したって良いではないか。そういうこと。もちろんCでもDでも良い。自由って本当に素晴らしいものですね。