物語か、キャラか。

まあ、二項対立になってないんですけれども。

ぼくは物語派寄り――世界観派。登場人物のそれぞれに感情移入したり、感情移入を切り替えたりと言うよりは、誰にも感情移入できないんだよなあ。動物や機械何かの方が、感情移入できる。多分、ぼくの精神が弱すぎるから、魂があるものとして描かれる登場人物に入り込むだけの体力がないのだろう。最近、感情移入できたのは戯言遣いいーちゃんくらいだ。世代か? 小さい頃は、自分も年を取れば大人になるんだから、上の世代(下の世代はまだいない)と自分と違うものだと考えてこなかった。しかし、自分も年を取っていくにつれて、自分たちと価値観が異なること、世界を共有していないことに気が付いた。割と下の世代と自分の世代との差は見過ごしがちだが、それは侮っているだけで、やっぱり価値観は違うのだろう。侮っていると言えば、ぼくが動物や機械の方が感情移入できるというのも、彼らの精神性を軽く見ていて、自分が補ってやろうとかどこかで思っているから、感情移入するのかも知れない。だから、感情移入じゃなくて、感情の補完かも。

ちなみに、ぼくの世界観派レベルは、テイルズ・オブ・ザ・ワールドはできてもスパロボは許容できないくらい。ガンダムだったらターンAが一番強いんじゃないのか。でかすぎるヤツとかどうするのさ、みたいな。

ところで、昨今の同人誌ブームなんかを受けて、読者にも作家性があるとかいう言い方がある。しかし、そんなものは前からあって、人気投票によってストーリーは変わっていくし、噂話だってその場のウケによって尾ひれが付いたりするものだ。それが読まれるものである以上、綴る者以外に読む者がいなければいけないなんてことは、それこそメタ視点とか、何とか論みたいのを語る人の好物じゃないかと思うんだけど、さも発見のように語るのは何でだろう。


ゲームなり小説なんかをアニメ化するとき、ゲームに付いていたキャラクターボイスの声優とかドラマCDの声優と、アニメでの声優が違うことがある。そうすると、大抵非難される。それは何故だろうか。素朴に感じるままで言うと、違和感があるというか、イメージが崩れるとかを理由にしそうだ。じゃあそれは何でかというと、単純に、同じキャラクターなのに声が違うのは変だから、というのが理由だと思う。つまり、キャラクターをメインに声のキャストを考えている。まあ、元のメディアでの声優が好きだからというのもあるだろうけど、だったら、違う役でその声優が出ていれば良いかというと、それにも文句をいうと思う。だから、取り敢えずキャラクターの同一性を揺るがすから非難する人がいるのだとしておく。

それについての論はない*1。単に思ったことを垂れ流すのが目的のノイズ・ブログ。

ぼくが思うのは、登場人物というのはあくまで役なのだから、役者が違うことくらい当然じゃないのかな、ということ。これは最近思いついたことで、今までは素朴に不満に思っていた。けれど、不満に思う理由もないかなと思うようになった。そもそも、キャラクターが出来上がってから声のキャストがあるのだ。キャストが先にあってキャラクターが上がることもあるが、キャラクターを作る人と、声優を選ぶ人が違うことが多いのに、キャラクターに声の人が完全に含まれているなんておかしいではないか。現実と架空の区別を付けられるまともな人間として、役の方は入れ物に過ぎなくて、役者も演じるだけなんだと考えておけばいい。演劇をやる人は、シェイクスピアの劇なんかをやることも多いだろうけれど、演劇を見る人が、リア王は日本人じゃないのに日本人が演じているのはおかしいとか言い出したとする。それに対して、そんなこといってもしょうがないじゃないか、と大抵の人は思うだろう。だったら、ゲームやアニメなんかのキャラクターボイスだってそうじゃないか。

一体ぼくは誰に向かって意見を言っているのだろうな。そんなつまらないことを思っていたのは、ぼくだけだったかも。

*1:クリスマスを目前に控えて一人で何を考えているのか虚しくなるばかりだから。はてなまでクリスマスしようってどういうことよ? いや、本当は特に何の感想もない。いちゃいちゃしたいヤツはいつだっていちゃいちゃしていればいいのだ。ぼくはもてたいと思ったことがあまりないというか、他者がいなくてもそれなりにずるずる生きてしまっているので、あまり他人を必要に思ったことがないのだ。もしかして、ものすごく孤独なのか。まあいいや。どうでも。それくらいのレベルの認識。