慣れることの有用性と考える力、人間の能力

同じく『小説の誕生』からなのだが、慣れてしまうとオリジナルを開発した作家でも過去の自分の亜流になってしまうという。
古い暮らしになれてしまった老人は、どんなに便利でも新しい最先端のことを必要としない。クリエイティブ職の人でも、同じジャンルのことばかり考えていると若年性痴呆症に罹ってしまうことがある。
本来、慣れるというのは失敗の排除であって*1、運動選手や職人には欠かせない能力である。多分、喋ったりする言語感覚とか、社会生活を送る能力とか、危機を感じる直感とかも慣れという名の情報の蓄積がもたらす効力だと思う。
しかし、慣れというものが失敗の排除、正解の蓄積だからこそ、それ以外の正解を導き出すための道も閉ざしてしまう。
少なくともぼくの史観では人類は常に進歩し続けている。進歩し続けている以上、古いものはより新しいものの方が良くなっている。あるいは、古いものをもとにして考え出した新しいものは、もとの古いものよりも良くなっている。別に良い悪いがなくても、新しいものに対応できなければ、仕事にあぶれてしまうのが現代だ。新規性がなければお客は着いてこない。
とすれば、慣れにより効率化され、その正解以外を排除するようになってしまっては、生き残れないんじゃないだろうか。おばあちゃんの知恵袋だけでは生きていけないのではないだろうか。常に慣れないことをし、勝手の分からない世界でもがき続ける。めちゃめちゃきついことだが、そうやっていかなければ人間の人間たるところを保ち得ないのではないだろうか。実に動物的でなく、それゆえ人間性も半分以上削がれているような気がするが、人間だけの人間らしさなんて、そういうものだと思う。
しかし、それは生物としてきついことで、多くの創造者たちのように、創造に挫折するか、人生ごと挫折するかという瀬戸際に立つことになる。なにせ正解に至った瞬間にそれを手放して、更なる正解を求めて暗中模索しなければならない。どう考えても苦しいじゃないか。不安だ。しかし、その不安こそが、進歩の原動力だ。
兎角世は生きづらい。少なくとも、自力で成功者になるのならば。

*1:小脳の仕組みがそんなんだったと思う。