ぐだる思考。

適当なことを書いたら、記法を教えて戴いた上にお返事も戴けた。こういうのを期待してはてなに来たのだけれど、実にこそばゆいものだね。こうやって、新入りとか末端にまでPVが行き渡っていくようになるのかも。

センスとテクニックってテーマだけど、ぼくにとっては、内的アウトプットと、外的アウトプットという認識。今思いついたんだけど。どちらもアウトプットであって、インプットとは別。もちろん、テクニックによって自分で表現したモノからもフィードバックとしてインプットされうる。確かにそう。「鶏が先か、卵が先か」って書いちゃうと二元論になってしまうみたいで、認識不足*1

よし、じゃあアレだ。ぼくは、センスもテクニックもアウトプットだとさっきになって言い出したのだから、それから先の意見ではどちらかがどちらかに依存するとかそういう話はなし。「先行している」というフレーズに振り回されてしまった。誰だよ、そんなこと言いだしたのは。そういう話をしたかったんじゃない。「〜ていて、しかも」というのは、併存なんだという主張にしておけば良かった。だだっ子でごめん。

うーん、でもやっぱり、意識的にせよ、無意識的にせよ、自分の内部に何か表現すべきイメージがあって、さらにそれを表現するだけの手段があるときに、はじめて人間の作品として成立するんじゃないのかなあ。無意識ってのは便利ワードで、およそ弁識能力があれば無意識にやったことって言えるんだぜ? そういうのも含めてのセンスだと思うんだよなあ。手段だけってことになると、監視カメラが映した映像やプログラムがランダムに吐き出した映像とかだろうか。これは、人間の作品じゃないよなあ。円周率の一部を切り出してみると、いい画像データになるかもよ。北斗七星の並びから曲を作ったりね。しかし、手段による現出が先行していても、結局それを作品として選び出すセンスがなければ作品とみなされることはないのだから、やっぱりセンスが先なんじゃないかなあ。デュシャンの作品なんて、ほとんどセンスだけじゃない?

けれど、今までの場合は、センスがあっても、それを現実世界に出力するだけのテクニックがなければそれができなかった。だから、まずはテクニックがないといけないとか、テクニックを身につけるうちにセンスが磨かれるんだとか言われていた。けれど、センスが独立して、あるいはテクニックとは別の方向からやってくことだってある。作家は、いかに人生経験を積んだかが重要だと言われている。それは、人生経験が筆先のテクニックに直結しているから言われていることではないはずだ。人生経験から来るセンスは、文章テクニックとは別モノだ。センスとテクニックは別モノだけれど、それは、センスがテクニックに先行しないこととイコールじゃない。

ところで、模型飛行機を見てプロペラの小ささに気付くこと*2は、多分経験で養える感覚。けれど、テクニックはセンスに対する必須条件ではない。タケコプターの飛行原理は、反重力によるものなのだが、誰がそれに気が付くだろうか。こういうのはテクニックに関係ない。けれども、SF方面の知識があれば、タケコプターはどう考えてもあのプロペラじゃ飛べないから、反重力でも使わないと無理だよ、とか言えるのかも知れないが。しかし、そういう話じゃなくて、本質って言葉はあまり使いたくないな、という話。プロペラの大きさも飛行の本質だけれど、タケコプターの反重力も飛行の本質だ。けれど、反重力なんて不条理ではないか。本質とか言い出すと不条理になるんだよ*3

*1:正解は、神様が同時に作った、ってことで

*2:森ログアカデミィにあった話題

*3:不条理な話だ