サヴァン

この手の話でどうにも腑に落ちない点がある。言語能力を発揮しないということは、世界をシンボル化のフィルターを通さないで“見る”ということである。だから、喋れない自閉症の人間が芸術家クラスの絵を描けることがある。という話だ。これがどうにも納得できない。


それっぽい説明ではあるんだけど、外部から観察できることは、普通の人間はシンボル化した絵を描くことと、サヴァンの人間に写実的な絵を描く人間がいるということだけだ。絵を描く能力しか見えていない。だから、言えるとすれば、普通の人間はシンボル化した“表現を行う”こと、サヴァンの中に“写実的な表現を行う”人間がいるということではないのか。どうして、世界の“見方”になってしまうのか。“表現”の仕方の問題じゃないのか。


脳波か何かを測って、“見方”の問題であることを確認しているのだろうか。僕は普通の人間で、シンボル化した絵を描くが、世界をシンボル的に見ているつもりはない。思い出すときもまだ画像的だ。ただ、人に伝えるときとか文章化するときは否応なく言語化されるし、光景を思い出すのではなくて抽象的にイメージするときはシンボル的に思い出している自覚はある。だから、シンボル化するか、視覚そのままかというのは、見るという段階ではなくて、認識し、思い出すときの問題じゃないかと思うのだ。


大体、見たまま描けたらデッサンの練習なんてしないだろう。まあ、これは音楽でも同じで、一度聞いた曲ならすぐにピアノで弾けるサヴァンがいるらしいが、ピアノの鍵盤の配置は直観的かどうか疑問があるし(黒鍵・白鍵の位置関係だけでなく、左が低く、右が高いこととか)、演奏テクニックというのは聞いた音とは関係ない。それはきっと絵を描くことでも同じで、見たものを描けるには、描くための能力が必要だと思う。どうして、描けるのか。その理由は、シンボル化しないで見ることだけが原因ではないだろう。どうなのだろうか。