挌闘家

 まあ、引きこもりネイティブな人間の思い描く、仮想敵のような挌闘家について書いた何か。
 挌闘家は、「強いやつと戦いたい」と言う。しかし、「勝ちたい」とも言う。
 戦ってみて、自分よりも強い相手なら、勝つことはできないわけで、少なくとも「勝ちたい」と思っている格闘家ならば、自分より弱い相手を打ちのめすことを目的にしている。
 また、「強いやつと戦いたい」挌闘家は、どれだけぼこぼこにやられても、強い相手と戦えれば、そこで何発か攻撃を当てられれば満足するはずだ。実際はどうなのだろう。
 勝ったならば、その勝利が実力によるものならば尚のこと、相手は自分よりも弱かったということの証明になる。自分よりも弱い相手を打ちのめすのが勝者なのだ。そのことが悪いわけではない。相手よりも効果が出るまで準備をしてきた結果、相手より強くなり、相手に勝利したからだ。その時の判断の結果勝利したとしよう。それは、相手よりも的確な判断ができるように経験を積み、思考を重ねた結果だ。事前の準備がものをいうのだ。つまり、戦う前からおおよそ結果は出ている。それを既成事実として確定することにのみ、勝負の意味がある。
 事実の有無は、ある意味決定的な差異だ。その差異こそが現実の意義といえる。そうでなければ、自分より弱い相手を打ちのめすという結果に、どれほどの意味があるだろうか。実力が拮抗している相手だったとしても、倒してしまえば自分より弱いと確定することができる。その確定に意味を見いだすことが現実への適応であり、その点において、挌闘家は即物的だといえよう。
 「強いやつと戦いたい」挌闘家は、何を目指しているのだろう。自分の実力を測ろうとしているのだろうか。運良くその相手に勝てるかも知れないと期待しているのだろうか。もし、その「強いやつ」に勝つことができたとしても、それは周囲の認識よりもその相手が弱かったか、周囲の認識よりも自分が強かったということにすぎない。それで満足する挌闘家ならば、その挌闘家は、格闘技に名声を求めているのだろう。あるいは、とても適わない相手と向き合うというスリルを楽しんでいるのだろうか。
 少なくとも、痛めつけられるのが嫌な人間は強い相手と戦いたいとは思わないだろう。痛くても構わない人間のうち、自分の痛みより、相手を叩きのめすことの方に価値を認める人間だけが、挌闘家へと至るのである。