SHUFFLE! MEMORIESの第3話 時雨亜沙編 前編

割合オルタナティブから入るぼく。シャッフルはけっこう作画のレベルが高かったのか、今回上に揃えてきたのか。メモリーズは全編に亘ってほとんど総集編で、それだけ見ていたのではほとんど分からないどころか、文学の本質を取り違えた文学作品のあらすじ集のように奇妙に断片的で、思わせぶりなことになっているのだが、それでも、本編はきちんと作ってあって、本作とは別のところにきちんと全容が作ってあることが担保されているという前提を持って見てみると、非常に面白い。その面白さは何かというと、その全てを知ることは決してできない現実の世界そのものに触れるときと同じような構図が立ち上がっていることだと思うのだ。我々が世界に触れるとき、その全容は見られず、常に断片化された事実を、経験則なり数式なりに抽象化して理解する。それと同じように、連続的な本編があって、断片的な総集編を見るということで、本編に思いをはせることができる。特に、ぼくの場合は本編をほとんど見たことがないので、繋がりのほとんどを自分で補うしかない。それでも、部分的には見たことがあるので、その記憶をとっかかりにすることができる。自分だけの文脈でもって見るシャッフルは、シャッフルという存在だけで見ると誰に対しても公平に存在する事実であるのだけど、ぼくの見るシャッフルは、ぼくの見るシャッフルにしかならないのが面白い。それは、本来どの作品においても言えることなのだが、今回は特に総集編で断片的に見せられるからこそ感じられて面白い。本来なら、ほとんどシーケンシャルに繋がっていただろうシーンとシーン、あるいは個々のシーンの意味が、キャラクターごとという編集方針があるために、あえて伏せられ、同じシーンなのに情報が制限されている分、却ってその全容が全容として存在し、隠されてもないが明かされてもいないこの現実世界と被って見えて、そんなことをシャッフルに感じる人はほとんどいないだろうけれど、ぼくの場合はシャッフルにそれを感じて、それはシャッフルの本質ではないのだろうけれど、その所為でぼくには非常にシャッフルが面白く感じられる。タイトルを連呼しているな。芙蓉楓バージョンのCM(メモリーズも普通の値段で売るのな)が、映像のチョイスがどうしょうもなくヤンデレなところばっかりなので、普通に喋っている後藤邑子のナレーションも狂気っぽいナレーションのように感じられた。そんなコンテキスト。